遥か昔、自然豊かにして緑溢れるこの真田の大地に、私たちの祖先にも当たる人たちが生活を始めました。
自然の恵みを受けて命をつなぎ、自然の脅威により命が失われることもありました。
人々は、その命を育み、命をつないで下さる土地の恵みに感謝すると共に、時に荒ぶり、人智の遠く及ばない姿を畏れ、敬いました。
食物の実りを、郷の安寧を、人々の無事を、大きな自然の中の一部として、生かされていることに感謝し、
祈りを捧げ掌を合わせたことが山家神社のはじまりです。
そしてその祈りは、生物の命がつづいていくのと同じく、今にまで続いています。
延喜式神名帳にその名の見える「山家神社」は、信濃國は小県郡の山間部に位置する古社であり、
その御神体である四阿山より見晴かす神川水域一帯の大産土神として広い信仰を受けてきました。
そこで古の人が見た「カミ」とは、生きとし生けるものの、
生命の根源を守り、
鎮守の杜と社殿から見えるように、飾り気のない純朴なる姿、地域と共に生き、地域に守られ地域を護りつづける信仰が、山家の郷のかみのやしろです。
自然と共に、地域と共に、人と共に、活かし合い生きる、「郷生」のこころを感じていただけたら幸いです。
創立年は不詳であるが、延喜式神名帳収載の山家神社で、土地の神(大国主神)を祀って旧山家郷の産土神としたものである。
景行天皇の御代(71~131)に日本武尊を合祀したと云う。
社伝に、「本社の別当浄定というもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比咩神社を信仰し、其の神霊(伊邪那美神、菊理媛神)を勧請し、養老二年(718)奥宮を四阿山絶頂に奉遷す」とある。
この養老年間には四阿山御手洗川である神川に吉田堰が開削され、御山開山は河川技術の伝播が深く関わっている。
本社はもと旧字古坊に鎮座していたが、文徳天皇天安元年(857)六月十六日、暴風雨洪水にして社殿を崩壊し、神森を押し流して現在の地に遷ったと伝えられている。
尚、この時、神主の清原眞人某は姓を押森と改称したと云う。
『神祇志』に「山家神社、今在四阿山上、即古山家郷之地、郷名今存干真田村、其地又有一祠、日山家社、蓋後世所分祠也」とあり、
『神祇志料』には「山家神社、今真田村山家にあり、白山神と云うと見ゆ」とある。
山家神社は農業、水利、疫病、盗難、その他諸々の災厄、祈雨、祈晴に霊験あらたかな為、古来、国司、守護職、武門、武将より一般民衆に至るまで、
崇敬極めて厚く、その信仰は長野県下はもとより、埼玉、群馬、遠くは兵庫県にまで及んでいた。特に真田氏代々の崇敬深く、奥宮(四阿山)並びに本宮の営繕や寄進を受けている。
慶長五年(1600)九月兵火にかかり全焼し、翌六年に真田信幸公が再建した。
その後の仙石氏松平氏入部以降明治四年の廃藩置県に至るまでの間、上田城鬼門除の神、又、城の守護神として上田藩の崇敬深く、祭典費営繕費等の寄進及び恒例による藩主の参詣、神札の授与が行われていた。
『甲石之郷指出帳(上田藩村明細帳)』に「上田御城門之為鬼門、御城主様御代々御建立御修覆、御祈祷無懈怠執行仕、依之御城主様御在城之節者、御社参被為遊、其上毎年御代参御座候、御札守差上候」とある。
白山信仰が全国に広がりをみせる中世以降、当時の神仏混淆の結果「白山大権現」と称し、神護寺(神宮寺)である白山寺と共に祭祀が行われるも、明治維新(明治二年)に神仏混淆が廃止され、社号を旧来の山家神社に復した。
明治六年四月に郷社に列せられ、同四十年四月五日神饌幣帛供進指定を受け、昭和五年六月十九日付で県社に昇格した。
社殿は、明治二十年の真田大火の類焼で全焼、翌二十一年に再建されたものである。
主祭神
大国主神(大己貴神)
須佐之男神の六世孫。出雲の神としてあまりにも有名であるが、広く全国を統べる神格を有する。国造り、国譲り神話の中心的な神。
伊邪那美神
神代七代として成った女性神。対偶神の伊邪那伎神との国生み、神生みの神話。火神を生んで神去り、黄泉国の神として、
黄泉津大神、また、伎神を追ったことから道敷大神とも云われる。
菊理媛神
伊邪那伎神が伊邪那美神を追って黄泉国に到り、そこから逃げ帰ろうとして、黄泉平坂で争った際、間に立って二神の調停をした神。白山神。
相殿
日本武尊
景行天皇の第二子。小碓命と称した。熊襲の鎮定。そして蝦夷の反乱の為、東征し、帰路、鳥居峠越えで山家神社に立ち寄り、神泉を使われたとの伝承がある。
神八井耳神
神武天皇の皇子。科野国造の祖。